ふにふにおちる

21歳の大学生が書いています。いろんなことを腑に落とそうとします。

あいつは戦車が好きということ

 

 

 

他人の好き、に鈍感であったことのお話をします。

 

 

 

 

私はこの前とあるあいつとお出かけをしました。

 

私たちは家電量販店のゲームとかおもちゃのフロアを冷やかして楽しむことに決めます。

 

あいつはプラモデルが見たいと言います。向かいます。

 

着きました。戦車のコーナー。彼はうれしそうです。

 

右をみても左をみても下をみても上をみても戦車のプラモデルがあります。

天井をみるとさすがに天井があります。

 

そんな場所で彼は、立ったり座ったり、箱を引っ張り出したり、ひっくり返してみたり、「かっこいい」と言ってみたり忙しそうでした。

 

私は他人の好き、について知りたいと思うタチの、静かにしてればいいのにって人なので

 

「どれが一番好きなの??」

 

と聞きました。

 

これが後になって、なかなか変な質問だったと気がつきます。

 

彼は少し困っているようでした。迷っている、とも違って困っていたのです。

 

「逆にどれが好きよ?」

 

困った末に質問を打ち返してきました。パコーン(硬式テニスの音)。

 

私はあんまりよく分からないけれど、なんとなくカッコイイものを指さします。

 

「それはかっこいいね」「それはいついつのどこどこの国の戦車なんだ」「それは弾を受けたボルトが戦車の中で暴れて中の人を怪我させないためにボルトをなるべく使わない作りになってる」「これは着弾前にセンサーが反応して爆発するんだ」「キャタピラとカピバラを間違って作ってしまった戦車がこれだよ、すごく揺れるんだ」

 

彼が教えてくれたことのほんの一部です。言ってないことも書いていたらごめんなさい。

 

満足した私たちは、帰路につきました。お出かけはおしまいです。

 

 

 

彼と別れて少しして、あ、変なこと聞いたな私と思いました。

 

「どれが一番好きなの??」

「どれが一番好きなの??」

「どれが一番好きなの??」(エコーだと思って)

 

「一番とかないんだよな」

 

って言うと思います私なら。いやなんならあなたも言いませんか

 

「一番とかないんだよな」

 

って。

 

私はお笑いがある程度好きです。もし、「一番好きな芸人は?」と聞かれたら

 

「・・・東京03は好きなんだけど、それは単独ライブの最強さの話であって、ゆるい漫才でいったらおぎやはぎとかpoisongirlbandとかコマンダンテとかロングコートダディとか、キャラの人間性の作り込みで行ったらかもめんたるの右に出る芸人はいないし、これからグググっといくでしょう枠はからし蓮根だし、かが屋は良すぎるコントをするし、結局笑っちゃうのは千鳥だし、あと磁石の佐々木さんの顔がシンプルに好き・・・・だから一番とかない!」

 

ってなります。自分が好きで通じてるものって一番とかないと、自分を通して考えると分かるんですよ。でも私は

 

「どれが一番好きなの?」

 

ってぽろっと言ってしまった。

対象が違うだけで、好き、も別物のように考えてしまった(好き、が別物の場合もあるけれど)。

 

 

 

他人の好き、に鈍感だなと思ったある日でした。

 

好き、はとても主観的なものだから、誰かの好きを大事にすることは、その人の主観つまりはその人を大事にすることなんじゃないかという気がしています。

 

大事にしたいなぁ、人の好き。

 

 

 

後日、例のあいつとお話をしていました。

 

彼「俺、〇〇って本が好きだから、3冊買った。」

私「????」

彼「読ませたい人に配る。読んで、って言っても読まないでしょ?だから好きなものは買って配る。」

 

 

 

私「全然わかんないんだけど!!!!!!!!」

 

あー難しい難しい。

 

 

 

隣の芝が青いことについて①

「隣の芝は青い」という言葉があります。

 

自己への肯定感がぺらっぺらになってしまったとき、私もお世話になります。

 

ただ、この言葉が私の中で発動される多くの場合、隣の芝は

 

「青い」で済んでいない、ないしは「茂っていない」

 

のです。

 

他人への憧れや嫉妬が強すぎるとき

 

「隣の芝は青いし、バーベキューもやっている」

 

ように見えます。たくさん友達がきて、わいわい楽しそうです。

 

あーいいな、ソーセージとか焼いちゃって。

わ、おにぎりに醤油塗って焼いてる、それはうまい、反則だよー。

ちょっと!!!ピーマン炭になっちゃうから、誰か皿に引き上げな!!

 

私もしたいなバーベキュー。

 

ということで、私も始めるんですよバーベキューを。

 

心許せる友達を呼んで、こっちはトウモロコシに醤油塗って焼いちゃうぞ。

食べにくいけど美味しいんだこれが。

赤身の肉もいいけど、豚トロとかも買っちゃって。

食べ残した具材で焼きそばも作るぞ。あと、エビスのビールはうまいな!!

 

バーベキュー最高!!!!

 

と思えた頃に、ふと横を見ると

 

「隣の芝は青いし、バーベキューの後の花火を始めている」

 

んです。

 

「おい、危ないから振り回すなよ〜」

「お前が俺のから火持ってくから、俺の消えちゃったじゃん!!」

「きゃーーーー(ねずみ花火が暴れてるらしい)」

 

いいなぁ花火。きゃっきゃ言ってるよみんな。

 

もちろんドンキに買いに行きます。打ち上げもどきとかも買います。

 

ただ、その頃にはもう

 

「隣の芝は青いし、バーベキュー後の花火も終わり、みんな家の中に入ったのに、付き合う直前の1組の男女がおしゃべりしている」

 

状態なんです。いますよねそういうやつら。気持ちは分かります。夜って特別ですから。

 

「中、めっちゃ盛り上がってるね」

「そうだね」

「行かないの?」

「うーん、いいかな」

「そっか」

「そっかって(笑)」

「なんで笑うの(笑)」

「理由聞かないのかなって」

「あぁ」

「うん」

「好きだからでしょ?」

「え」

「俺のこと」

 

 

 

最悪だし最高ですね。夏過ぎて吐きそう。

 

 

 

どこまで行っても、隣の芝は優れて見えますね。

 

隣の芝の「青さ」「バーベキュー」「花火」「はじまりかけの男女」に気を取られて

自分の芝のいい匂いとか、お肉の美味しさとか、線香花火が落ちる瞬間の美しさとかを

大切にできないのは悲しいことだなって思います。

 

「いや、芝で花火やったら芝ハゲるから!こっちは水風船投げて遊びますわ!」って言える気概を持っているのもまた、すてき。

 

隣の芝が青いことについて②に続く

 

うえまき

 

 

 

やめた部活のウインドブレーカーが今もよく似合う

近所のスーパーに行くために、服を着替えるなんて絶対にしないと、小さい時に祖父と約束した。祖父の遠い親戚が、商店に行くためにパジャマからそれなりの服に着替えた時、うっかりズボンとパンツを一緒に脱いでしまったらしい。それを見ていた、親戚の妻がツボにはまり、その事件以降誰かが「商店に行く」という度にひくほど笑ってしまう体質になってしまったのだとか。「山内」という苗字だった彼らはいつしか「ズリ落ちさん」と呼ばれて嘲笑の的になった。着替えとは誰かの人生を変えてしまう責任のある行為なんだ、と幼心に思った。

 

明らかに嘘なんですけど

早い話が、ご飯買いに行く時にパジャマを着替えたくない性分なんです。めんどくさいのでね。そういう性分であるくせに、パジャマで出歩くほど肝は座っておらず。何かを羽織って出て行きたいなぁと辺りを見渡すと、ありました。高校の時、バドミントン部で着ていたウインドブレーカー。通称、シャカシャカ。シャっと袖を通して、鍵を持って、そう、いつも鍵忘れるから今日は優秀、とか思いながら家を出て、エレベーターに乗って、鏡を見ます。

 

「似合ってる」

 

とシンプルにそう思いました。最近着はじめたオフィスカジュアルよりも、お気に入りのオーバーオールよりも、気合い入れたワンピースよりも、似合ってました。

 

でも不思議なんです。私は、部活を2年の夏にやめました。だから、やりきった青春みたいなものはそこにあるはずがなくて。部活に「似合わない」人だったはずなのに、なぜかそこには部活のウインドブレーカーが似合う21歳がいました。

 

いろんなことを思い出しました。私にとってはとても大事なことだったけれど、今文字に起こしてみるとかなり大したことないので結構端折ります。ちょっと言うとすれば「似合わない」場所ではなかったし、もしかしたら「似合う」場所だったかもしれないです。でも、私はもっと似合う場所を見つけたくて辞めたのかなぁと。今、似合う場所にいるんでしょうか私。

 

 

我々、思ったより「服」と一緒にいませんか。手ぶらで出かけてもほとんどの場合服は着ています。実は「服」が知っていることって多いのかもしれません。

 

思い返せば、私は大学生が高校時代の制服とかジャージとかを着ているのが好きです。その人と私が出会う前のその人のことが少し、見える気がするからだと思います。まだ似合う人もいるし、あれよあれよと衣装になってる人もいたりして、面白いですよね。

 

 

そんなことを書いているうちに買ってきたご飯が冷めてしまいました。

とか、書いたらオチっぽいですが、元からお弁当はひえひえでした。残念でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

うえまき

女医とアイライン

 

先日、健康診断を受けまして。

 

目とか血圧とか調べた後「そちらの奥どうぞ〜」と導かれて

 

何にビビっているか分からないけれど、ドキドキしながらカーテンをめくると、女医さんがいましたね。

 

「お願いします〜」って言いつつ、1つ結びの女医さんの顔をみると

 

アイラインが!!!ガタガタ!!!!

パソコン使って書いた線みたいにガタガタ!!(パソコンで綺麗に線書ける人ごめんなさい)

 

その瞬間に、うわぁ、この人のこととても好きだなぁと思いました私。愛おしさがぶわぁっと。

 

この人めちゃめちゃ頑張って勉強して、お化粧する時間も削って、お医者さんになったんだなと。

 

恋人がいるかどうかは分からないけど

この人の恋人も、この人のアイラインのガタガタさに癒され、ガタガタさを愛しているんだろうなと。

 

ある日のこと

男「(今日もちょっと左側が長いな)行ってきます」

 

ある日のこと

男「(今日はどっちが長いかな…右だ、右に1票!!)」

女医「行ってくるね」

男「行ってらっしゃい(右ダァァァァア!!!しゃーーーーーー!!!!今日も一日頑張るぞ!!!!)

 

ある日のこと

男「(3日連続で左が長かったから、今日は右だな)」

女医「行ってきます」

男「行ってらっしゃい。(うぉぉあれ???まじかよ…うそだろ…今日は完璧だ、ガタガタもしてないし、左右の長さも等しい…くそぉ…この俺が予想を外すなんて

…そういえば、なんか最近アイツ化粧上手くなってる??

…もしかして…最近忙しくてあんまり話してないから…俺の気を惹こうとして…

ごめんな・・・)今日、早く帰るわ」

女医「バレちゃったか、」

 

 

という、もはやこっちが恥ずかしくなる生活を送っているかもしれないし

 

実はさして勉強しなくてもいい最強の頭持ってて

死ぬほど男と遊んでた過去はあるけど

一向にアイラインを上手くひけないだけの人の可能性もあって。

 

まぁここまで全部、私の頭の中で起こったフィクション中のフィクションなんですけども。

 

女医とガタガタのアイライン

 

なかなかに興味深かったです。

 

うえまき

 

Tポイントカードお持ちですか

「Tポイントカードお持ちですか。」

「いえ、もってないです。」

「大変失礼いたしました。」

 

 

 

そんなに失礼なことしてないですよ。

「大変」までつけていただいて・・・なんかこちらこそ申し訳ないです。

カード持ってない人にカード持ってるか聞いちゃうのが「大変失礼」だったら、客のカードのチャージ残高少な過ぎて笑っちゃった時とか、おならしちゃった時とかに使う言葉なくなっちゃうでしょ。あーそうか、そういう時も同じ「大変失礼いたしました」を使うんだな。「手が汚そうな顔していらっしゃるのでお手拭きあるだけ入れときましたって言ってしまって大変失礼いたしました。」とか言ってるんだきっと。

 

いや、待てよ・・・

 

もしかしたら私に「大変失礼しました」と言ったお姉さんは、実は私に大変失礼なことをしていたのでは・・・

「(中途半端な顔してるなこの女、おでんに例えるならさつま揚げだなって思ってしまって)大変失礼いたしました。」

だったとか。でもなんで、カード持ってるか聞いたタイミングで謝ったのか分からない。ということで、この説は信憑性に乏しいですね。

 

 

 

さては、私がカードを持っていないことを知っていて、持っているかどうか聞いたな。透視いじわるお姉さんなんだな。

「(持ってないだろう、そう、お前はカードを持っていないんだ、私には見える、でも聞いちゃうんだなぁお姉さんは)Tポイントカードお持ちですか。」

「持ってないです。」

「(だろうな、持ってないよな、私は知っていたんだざまぁみろ。はっはっは・・・

 

はっ・・・・。私は何てことをしてしまったんだ。目の前にいるさつま揚げのような女をおちょくるような真似をしてしまうなんて・・・こんなことに一体なんの意味があるっていうんだ、私としたことが)大変失礼いたしました。」

ってことなんでしょうか。確かにこれは失礼ですね。謝られて然るべきだと思います。

 

 

透視いじわるお姉さんってコンビニで働いてましたっけ。

ちょっと定かではないですが、何にしろこの説が濃厚ですね。

 

今日はとても腑に落ちました。よし。

 

 

 

 

大変失礼いたしました。

 

                                   うえまき

とらわれていたい毎日

「ちいさいことにとらわれていきていきたい」

と私は文字を打ちました。きっとそう思ったのでしょう。

 

しかし

 

「ちいさい」が「小さい」に変換されたのち問題発生。

「とらわれて」「囚われて」「捕らわれて」「捉われて」・・・ん?私が思ってるのはどの「とらわれる」なのか分からないではありませんか。

 

調べてみました。

Google先生が納得のいく答えを持っていなかったので、図書館まで行きました。

 

結論としては

私は小さいことに「捕らわれた」のち「捉われ」て「囚われる」ことはないように生きていきたい

ということになりました。

 

わけわからんですね!頑張って伝えていきますよ!!!!だから最後まで読んで!!!!

 

1.「〜にとらわれる」という言葉を漢字にするならば「囚われる」が正式。

2.でも実際のところ、「捕らわれる」も「捉われる」も一般的に使われている。

3.「牢獄に囚われる」のように、罪を犯したのち罰として身を拘束されるの意味がある時以外は、あまり使い分けを意識している人は少ない。

4.漢字の意味から考えると、やはり意味の違いはある。こういう使い分けはどうだろうという私なりの結論。

の4点に分けて伝えます。うっしゃ!

 

1.「〜にとらわれる」という言葉を漢字にするならば「囚われる」が正式。

についてはジャパンナレッジ収録の『日本国語大辞典』で検索したところ「とらわれる」は「囚われる」でのみ書かれていました。「とらえる」だと「捕える」「捉える」も出てくるのですが。それらの受身の形は「とらえられる」だということなんでしょうか。

 

2.でも実際のところ、「捕らわれる」も「捉われる」も一般的に使われている。

ってのは

筑波大学国立国語研究所・Lago言語研究所『NINJAL-LWP for TWC』(http://nlt.tsukuba.lagoinst.info

このツールにお世話になりました。Webで使われる言葉の頻度とか、どんな言葉と一緒に使われるかなんかが分かる優れものです。

 

検索結果

「囚われる」3155件

「捕らわれる(捉われる)」2521件

*「捕らわれる」と「捉われる」ここでは同じに扱われてましたね。

 

やや後者の方が少ないですが、どちらも一般的に使われていると言えます。どちらも「〜にとらわれる」という用法で使われることが一番多かったです。何にとらわれているのかもほぼ似通っていて「こと」「概念」「思い」「枠」「過去」「常識」「感」など。ここで気がつくことは

みんなして見えないものにとらわれてる!人間かわいい!

ってことですね。物理的なものにとらわれる表現は少なく、比喩的な表現ばかり・・・おもしろポイントです。

 

3.「牢獄に囚われる」のように、罪を犯したのち罰として身を拘束されるの意味がある時以外は、あまり使い分けを意識している人は少ない。

に関しては、先程の検索結果から判断しました。結構、自由に使われてました。・・・ってことは使い分けは気にしなくていい・・・?いやせっかくだし考えてみよう、というのが次

 

4.漢字の意味から考えると、やはり意味の違いはある。こういう使い分けはどうだろうという私なりの結論。

に繋がります。鎌田正/米山寅太郎『新版 漢語林 第2版』(2001年、大修館書店)を元に考えました。

「囚」 罪人をとらえて牢などに入れる。転じて束縛する。→囲われて出られない状態にするの意が他より強い。

「捕」 「甫」には稲の意がある。苗をしっかり握る、しっかり手に取る。→逃げてしまいそうなもの、無くなりそうなものをパッと止める、の意が強い。

「捉」 「足」には「束」の意がある。束ねる。からめとる。→他よりちょっとねっとりした言葉。複数の何かを一つにするイメージが強い。

と、私の中ではこうまとまりました。異論はカモンです。

 

 

さて、ようやく本題に入れます。

検索をしている最中「とらわれずに」「とらわれ過ぎて」「とらわれないで頑張れ」みたいな言葉を沢山見ました。「とらわれる」ってネガティヴな言葉みたいです。でも私はそうは思わなくて、小さいこととかくだらないことに「とらわれて」いたいと思っています。「とらわれて」ウンウン唸って、歩き出すまでってなかなかに尊い時間ではないかと。

凄まじい勢いで流れていく「小さいこと」「くだらないこと」に

まずはスパパパっと「捕らわれて」

その後にじわじわそれらに「捉えられて」

足を止めて、考えて、少しばかり納得して歩き出す

・・・いやぁ素敵。そんなのすてき。

ただ、奴らにぐるんと包囲されて「出れないよ!ダンダンダン!(ノック)出して!ぴぎゃぁ!」みたいな「囚われ」方はやめようかなって気持ちです。あんまり得しない。

 

 

あーーーーあ。今日も小さなことに「捕らわれ」「捉われた」結果の2000字でした。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

                                     うえまき

 

 

 

 

 

「好き」の取り扱いについて

 

1番先に断っておくとあまり色っぽい話ではない。恋愛論を期待して指を載せたあなた、そうあなた、ごめんなさい。

 

私は分別がつき始めた頃から「好き」という言葉や概念に怯えている。

 

「ゆたんぽ好きなんだ〜」

モノに対する「好き」はまだいい。問題なのは人に対する「好き」だ。家族、友達、恋人、互いの性別、関係なく。

 

「紗香ちゃん大好き!ずっと友達!」

小学6年くらいから、女の子の界隈で耳にするこの類の「大好き」は私を震えさせる。その言葉が嘘だとか軽いとかの理由で怖いのは多少ある。でも、本当に「大好き」な場合が無いわけじゃないことも分かる。

 

私が一番怖いのは「大好き」が「明日も大好き」でいなければならない呪いを纏っていることだ。明日の紗香ちゃんは何かに啓発されてどぎつい性格の女の子になっているかもしれない。週6で原宿にいく子になっているかもしれない。ブラシくらいのつけまつげをつけてくるかもしれない。変わってしまった紗香ちゃんをも一度好きと言ってしまったら嫌いになってはいけない、気がする、私は。まあ、ブラシくらいのつけまつげをつけてきたら、それはもう好きだけど。

 

反対に「大好き」と言われたゆえに、その人が言う「大好きな紗香でいなきゃ」と紗香ちゃんが思ってしまうのではないかという懸念もある。私の中では。

 

そんな懸念の先に、「大好き」を伝えられる人の強かさを私はおそれている。恐れもあるし、畏れもある。すごいよ。「大好き」を言うのも言われるのもびくびくしてしまう。「好き」という感情がないわけではない。好きな人はいっぱいいる。不思議なあの子も、意志を曲げないあの子も、すぐ病むけど優しいアイツもみんな好き。だけど言えない。

 

ちょっと話は変わるが、私は他人に心を開くのに時間がかかる。しかも、向こうの「興味あります〜」「好きです〜」みたいな空気を私が感じないと(ここ大事、私が勝手に感じるかどうかで、相手が実際好きだと思ってるかどうかは知らない)なかなか心を開かない。私に興味なんてないよね…枝豆の前に座ってるおしゃべり上手な人と話した方が楽しいからグラスをもってあっちにお行き…典型的に心が拗ねている。

 

「好き」って言われたいくせに、「好き」ってなかなか言えない。困ったヤツめ。